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号
特典
桐生ジャンパ-研究所
当研究所の目的はただひとつ。
スカジャン生産の歴史と技術を継承すること。
スカジャンは、創成期にはそのほとんどが群馬県桐生市で作られていた。
そして、いまなお、当時から続く「ジャンバー屋」が1軒だけある。
生地、リブ、横振り刺繍、縫製、ジッパーなど、素材や技術、道具に至るまで
当時からつづくノウハウは唯一無二、世界の中でもここにしかない貴重なものである。
しかし、その灯が消えかけている。
桐生ジャンパー研究所は、その系譜を受け継ぎ、後世に残すために、
平成29年(2017)に活動を開始した。
スカジャン創成期を知る人々は、80~90歳代になっている。
今、証言を残さないと、すべてが歴史の藻屑になり、何も無かったことになってしまう。
私たちは、歴史の真っ只中にいて、いまもなお歴史を作っている。
私たちが、その歴史を残せる最後の世代である。
歴史を残す責任があると考えている。
(桐生ジャンパー研究所所長談)
約1300年前、白瀧姫が京都から織物技術を伝承したのが桐生の織物の始まりとされる。鎌倉幕府を倒した新田義貞の軍旗、関が原合戦時の徳川家康の旗布にも桐生の織物が使われたという。そして江戸時代に幕府直轄領として桐生新町が整備されると、産業都市として大きく飛躍し、「西の西陣、東の桐生」と謳われるようになる。明治維新を経て工業化が進むと、生糸や織物を鉄道で横浜へ運び、盛んに海外へ輸出された。当時、桐生の絹織物はアメリカでも知られた存在であった。大正時代には人絹織物の本格的な商品化が桐生人の手で始まり、桐生織物の最盛期を迎えるが、欧米列強国との関係悪化から世の中は戦争へと向かっていく。有力な織物工場が織機の供出や転廃業などを迫られるなか、残存織機を生かしていち早く戦後復興の道を力強く踏み出す。その傍らに確かにスカジャンが存在したのだ。
約1300年前、白瀧姫が京都から織物技術を伝承したのが桐生の織物の始まりとされる。鎌倉幕府を倒した新田義貞の軍旗、関が原合戦時の徳川家康の旗布にも桐生の織物が使われたという。そして江戸時代に幕府直轄領として桐生新町が整備されると、産業都市として大きく飛躍し、「西の西陣、東の桐生」と謳われるようになる。明治維新を経て工業化が進むと、生糸や織物を鉄道で横浜へ運び、盛んに海外へ輸出された。当時、桐生の絹織物はアメリカでも知られた存在であった。大正時代には人絹織物の本格的な商品化が桐生人の手で始まり、桐生織物の最盛期を迎えるが、欧米列強国との関係悪化から世の中は戦争へと向かっていく。有力な織物工場が織機の供出や転廃業などを迫られるなか、残存織機を生かしていち早く戦後復興の道を力強く踏み出す。その傍らに確かにスカジャンが存在したのだ。
桐生
歴史
昭和20年(1945)8月15日、敗戦国となった日本。年末までには、全国でアメリカ軍を中心とする占領軍の進駐が完了。その数、約45万人。あらゆる価値観が大きく変化する時代、市井の人々は、文字通り必死に生きる道を模索する必要があった。そして、日本で最初の和製洋服「スカジャン」が誕生した。もちろん、最初からスカジャンという名前が存在したわけではない。日本が高度経済成長期を経験するなかでファッションにまで昇華したとき、横須賀の独特の文化から生まれた造語である。幾度かの景気の浮沈を経て、アメリカに多く渡ったスカジャンが日本に里帰りするようになる。そこにバイヤーやコレクターの活躍があった。いくつかのアパレルメーカーは、ビンテージスカジャンを模したレプリカのスカジャンを高い精度で再現しはじめた。すべて多くの日本人が関わってきた結果なのである。